「怖さ」の先にあるもの。

今年6月は、南堀江のライブハウス[SOCORE FACTORY]の10周年を記念して、ほぼ毎日様々なイベントが開催された。

お馴染みPROPSや、豪華ゲストが出演するイベントが目白押しだったのだが、そのなかでも一際目を引くイベントが「店長かさごの超怖い話」だ。

SOCOREの店長のかさごさんをはじめ、怪談を得意とするミュージシャンや怪談師が順番に選りすぐりの怖い話をするというシンプルなイベント。シンプルなだけにオーディエンスは存分に怖い話に集中できるし、話し手のスキルと話のスリルが直に伝わってくる。
過去のアーカイブがYoutubeにもアップされているので興味のある方はぜひ。

マニアとまではいかないものの、Youtubeで怪談や心霊スポット系の動画を定期的に見ている僕は、数ヶ月前にこのイベントの情報を聞いた時から既に参加することを決めていた!!

当日。フロアには椅子が20脚ほど設置され、席に着けない人は自由な場所で立ち見。ガスランプの炎がゆらめくステージに怪談師たちが登場し、およそ3時間にわたって怖い話を披露した。参加した人は異様な空気のなか、時にどよめき、時に静まり、おおいに怖い話を堪能した。


「怖い」の種類を考える。

余韻に包まれる帰り道。ふと「僕らは怪談やホラー映画のどこを怖く感じているんだろう」という疑問が浮かんだ。
そこで今回は「店長かさごの超怖い話」に参加してから考えたことを書き留めたい。

「店長かさごの超怖い話」で披露された怖い話にはさまざまな種類があったが、大きく分けて3つに分けられた。

・幽霊系 … 人が亡くなった後、魂が成仏できずに悪さをする。
・人外系 … 妖怪的な生き物が悪さをしてくる。
・人間系 … 生きている人間が悪さをする。ストーカー、サイコパス系。

そのなかでもダントツで多かったのが、やはり幽霊系。正体はわからないけど、”かつて人だった何か”が、時に単体で、時に集団で、理不尽に呪ってくる(もしくは何もせずそこにいる)怖さがある。

邦画と洋画で「怖さ」の対象が違う?

「幽霊系」の怖さを観察するために、ホラームービーに目を向けてみる。
ホラームービーには、幽霊や悪魔、妖怪、パニックホラー、スプラッターといった様々な怖がらせ方があるが、そのなかでも幽霊は古典的であると同時に、今なお量産され続けている不朽のテーマだ。

さて「幽霊に出くわす場所」(≒幽霊系の映画でよく用いられる場所)としてどこが想起されるだろう?墓場、火葬場、病院、遺体安置所、自殺現場、事故現場、殺害現場…。
当たり前すぎることだが「死」に関連する場所が多い。つまり死んでから成仏できずに現世に残ってしまったもの(たち)が、自分が死んだ場所にとどまって生きている人間に危害を加えるという筋が一般的だ。

邦画を並べてみると、奇怪で理不尽な筋の中にも、ざっくりと「あまりの無念な死に方に怨霊となっちゃった方々」という共通項が見えてくる。そして憎しみをこじらせたあげく、全く関係ない人たちまで襲ってしまう。「自分が受けた無常感を、次は別の誰かに味わわせたんねん!!!!」という並々ならぬ気合がみられる。

さて、もう1つ当たり前のことを確認しておくが、幽霊系の怖さには、次のことが共通認識になっている。

①人は死ぬと魂的な何かになる(=物理的ルールが通用しないものになる)
②その魂的な何かは、あの世に行けず人間世界に留まっている

これは日本の神道における死生観がベースになっていると推察される。神道のなかでは、人は亡くなると霊界に行き永遠に生きるとされている。それがなんらかのバグで現世に残って怨霊になるのが、邦画ホラーのエッセンスなのかもしれない。


一方、洋画に目を向けてみる。例えばアメリカのホラー映画で日本でもよく知られているものでいえば、「オーメン」「エクソシスト」「パラノーマルアクティビティ」などだろうか。

それらの映画で怖がられる対象は、主に幽霊ではなく悪魔だ。執念深く悪質な悪魔によって、人間がなす術もなく殺されたり、逆に悪魔ばらいの儀式を通して抗ったりしている。共通していることは、悪魔祓いや司祭といったキリスト教の重要な役職の人たちが奮闘するという点だ。

例えば、悪魔に取り憑かれた人に十字架を突きつけたり、聖書の一節を読み聞かせると、むっちゃもがき苦しむという描写があるが、ここには「聖なる(神の力を宿す)アイテムは悪魔に対抗しうる」という前提の認識がある。

そう。欧米(キリスト教文化圏)の人たちにとって、恐るべき対象は主に悪魔であり、キリスト教のアイテムで対抗できるのだ(もちろん例外として悪霊とか怨霊的な奴らもいる。人形に取り憑く『アナベル』みたいにね)。
つまりキリスト教の死生観が欧米産のホラーの世界観を形作っているといえる。
裏を返せば、キリスト教を信仰していない人からすると、悪魔がリアリティをもって迫ってはこない。信じていないものは存在しないも同じだからだ。

怖さは相対的なもの

まとめると
怖い話、ホラームービーは特定の宗教観(と、それに基づく死生観)をベースにしているため、その宗教を信じていない人にとっては怖さが真に迫ってこない。

神道からすると「十字架と聖水で太刀打ちできるわけないがな!!」となるし、キリスト教徒からすると「なんで死んだ人間がにそこまで呪われなあかんねん!!」と突っ込まれるかもしれない。
さらには、科学に振り切って考える人は「人は死ぬと無になる」と考える人もいる。そもそも悪魔も幽霊もいないのだから恐るるに足らず!という考えの人もいるかもしれない。

宗教が変われば怖さがなくなる。無宗教なら、なおさら恐怖の対象がなくなる。つまり絶対的に怖いものなどこの世にないのではないだろうか。僕らは暗がりを恐れたり、説明がつかない現象に怯えたりするが、それはある宗教観から見た怖さであり、別の宗教観だったり科学的な視点から見れば、取るに足らない事象に見えるかもしれない。

シャワーを浴びているとき、部屋に一人でいるとき、人気のない場所…。何かが出てきそうで怖い…!と漠然と怖がってしまう方は、「あれ、今なんで怖いんやっけ?」と観察してみると、意外と恐怖の克服に繋がる可能性もある。
そうやって怖さの正体を客観視できれば、ホラー映画や怪談を純粋な映画作品として楽しめるきっかけになるだろう。

今後また怖い話のイベントがあれば、友達とお誘い合わせのうえ是非。

Text : Seiji Horiguchi

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