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FRESH DANCE STUDIOプレゼンツ、インタビューシリーズ。番外編 HIDADDY

2017.07.26

FRESH DANCE STUDIOプレゼンツ、インストラクターインタビューシリーズ。
今回は番外編としてスタジオを飛び出し、インストラクター以外の人間へのインタビューを敢行する。
話を聞いたのは、HIDADDY from韻踏合組合。大阪を代表するMCとしてアンダーグラウンドで走り続け、近年はメディアにも出演するなど活動の幅を広げているMCだ。
これまでの活動の経緯、シーンに対する考えを語り、インタビュー中、ふとした瞬間に父親としての一面も垣間見せたHIDADDY。
20年以上アメ村をレペゼンしてきたラッパーの内面に迫る。


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--よろしくお願いします。
お願いします!ダンサーのイメージとは違う面を持つHIDADDYなので、今日はそこを伝えていけたらなと思います。
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1.HIPHOPとの出会い

--早速、自己紹介からお願いします。
出身は豊中。昭和53年生まれ、38歳のMC、HIDADDY。
昭和53年と言うと、般若、MC漢、TOKONA-X、茂千代などなど、「日本語ラップ当たり年」と言われる、通称「ゴミクルー」と言われる世代。
ただ俺は早生まれなので昭和54年生まれ。当たり年と言われる53年生まれではない、というところにコンプレックスを抱いている時期もあった、38歳です。(一気に喋り切る)

--バッチリな自己紹介です(笑) ラップに出会ったのはいつですか?
中1の時に、文化祭でMC HAMMARの真似をしてたバブオ君ていう先輩に憧れて、ラジカセを持って緑地公園に行って他の中学校の友達とダンスチームを組んで夜中まで集まってた。そこから俺のHIPHOPが始まった。ちなみに同じダンスチームに今の茂千代がいた。
緑地公園はスケーターだったりダンサーだったりBMXだったり、ストリートカルチャーが身近にあったな。

--HIPHOPとの出会いはダンスからだったんですね。
そう、で、HIPHOP聞きながらダンスをしてた。で、中学終わったら、周りの友達は高校行ったけど、俺は高校行かなくて。
周りの友達は高校いったらダンスじゃなくて、ラップをしだすねん。
それを知らない俺はずっとダンスをしてて、17歳くらいにアメ村で再会した時にはすでに、”鍋島君”は”茂千代”になってて、”ユクミ君”も”ATSU”になってて、二人で”ダイナモ”ってチームになってて。
そのLIVEを見て、俺もRAPや!ってなった。

RAP始めてしばらくしてから、シルバーアクセサリー屋でバイトを始めた。
隣にB-maticっていう淡越さんの店があって、その淡越さんからよく、「バイト君」て呼ばれた。
その下で働いてたグラフィティライターのZENさん(現JIG)が俺のことを「バー君」て名付けた。
バー君ていうa.k.aが俺について「HIDADDY a.k.a バー君」が名付けられた。
それが98,9年くらい。そのすぐ後くらいにERONEさんと出会って韻踏合組合ができるっていう流れやな。

--過去のAmebreakのインタビューでERONEさんがラップの師匠にあたるとありましたが、年はいくつ離れてるんですか?
1個。で、ERONEさんは昭和52年の年やねんけど、ERONEさんも早生まれやからさっき言ってた「ゴミクルー」の生まれやねん。(笑)
アクセサリー屋の隣の店で働いてたERONEさんとバイト終わりに合流して、ご飯食べよか、とかクラブいこかーとか、今日はフリースタイルしよかーとか。
夜な夜な「練習してる」っていうよりかはERONEさんと一緒に遊んでるって感覚やった。遊んでた先輩がフリースタイラーやったから、一緒に遊んでフリースタイルやってるうちに俺もできるようになった。
道場みたいやったな。最初は下手やから、一緒に遊ばれへんくて悔しいっていうのを強く覚えてるよ。
99年くらいから2001年くらいまでずっとそういう生活をアメ村でしていたって感じやね。
昼間働いて、週末はイベント行って、休日はフリースタイルしたり、みんなで曲作ったりして、みたいな。

2. 現在のラップシーンについて

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--高校あたりから周りがラッパーに転向していったということですが、当時はラップがブームになってきていたということですか?
ちょうど雷が出た時やな。

--なるほど。今もラッパーの人口は爆発的に増えてると思うんですが、この流れはその雷が出てきた時以来のブームと言えるんですか?
今、3周目やな。俺らがやりだした95年。あとエミネムの「8mile」が流行った時。んで今が3周目やな。今が一番でかい波やわ。

--そこがインタビューで肝になるところだなと思っていたのですが、ラッパーが増えてバトルブームだと言われていわれている現状について…
そこ話したかってん!
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--食い気味!(笑) HIDADDYさん的に思うことをお願いします。
ラップ=HIPHOPって言うのが失われてきた。もともとはダンスシーンにそれを感じていた。
ていうのは、昔ベイサイドジェニーでやってたJapan Dance Delightに俺が遊びに行った時の話やねんけど。
DJタイム中にフロアにでっかいサークルができて、出番が最後の方のEXISTとかが真っ先にそのサークルに入ってくんねん。
目があったRYUICHIくんとかが「お前も行きたいんか?いけいけ!」って背中押してくれんねん。
そこで無我夢中でランニングマンとかして、でも自分を出せず、「あー…」ってなりながらも楽しかったしその空間に衝撃を受けた。
「バトルじゃないし、ショーでもないし、普通のDJタイムやけど、ここが一番やばい」てなったんやな。
俺みたいな10代の若造から、EXSISTまで同じ音で同じ場所で踊ってる。時代が進むにつれてそれを「サイファー」って呼ぶようになった。

―「サイファー」という名前は後から付けられるんですね。面白い。
その当時は「サークル」とか。「サイファー」っていう呼び方はしてなかった。
ほんで今、フリースタイルでラップしてる奴らは、「サイファー」っていうのを「ラップする集まり」のことやと勘違いしてんねん。
「サイファーしようぜ」って言われても、俺から言わしたら「何の?」って感じ。
言葉の意味をちゃんと辞書で調べたらサイファーっていうのは「気を帯びた人だかり」のことを指してるらしい。

--あくまで自然発生するものであって、ジャンルがどうの、じゃないということですね。
そう。サイファーってそもそも、いくやつ見るやつ、いろいろいて自由やし。決まりはないし。
誰がどんだけ長く踊ろうが歌おうが関係ないはずやのに、ダンスバトルで行われているサイファーでも、順番に決まった時間でていくやんか。
あれってサイファーって呼ばれるけどサイファーじゃない。それをラップでも感じてる。バイブスが感じられへん。

俺は自分自身でセンスはないって思うけど、バイブスとリスペクトはいつも大事にしてる。
一二三屋でTシャツの色を決める時にしても、俺の発案した色、絶対通れへんし。
前にJAMのヒロさんにダンスのイベントで会った時も「おう!ヒダやんけ!お前相変わらずセンスないな!もう歌っとけや!」って言われてむっちゃショックやったり。(笑) そんくらいセンスない。
でもそんな俺が、ここまでやってこれたのはバイブスとリスペクト、そして続けてきた事。これやと思うねん。
才能があって恵まれてる奴らはすぐに有名になって花ひらいて売れていくやろけど、俺が伝えたいのはそういう奴を周りで見てる日陰のやつも頑張ってたら俺ぐらいになれるよってこと。
若い時の俺は、横で売れてる茂千代を見てたり、同い年のMACCHO(OZRO SAURUS)がめっちゃ売れてたり、TOKONA-Xが騒がれてたり、般若がいたりしてて。「ゴミクルーの当たり年」って言われてた中、自分はなかなか注目されなかった。
それでもフリースタイルをずっとやってて、今それが流行ってきてて俺も日の目を浴びるようになった。やっぱり続ける事やねんな。

--HIDADDYさんが日陰を行くラッパーだったとは…とても意外です。

ここまでは、HIDADDYのラッパーとしてのこれまでの軌跡。そしてシーンへの思いや危機感を赤裸々に吐き出してもらった。
後半では、HIDADDYが所属するダンスリーグについての話、そしてシーンの先頭を行く人間としての姿勢、あるいは広い意味合いにおける”父親(一二三屋ダディ)の役割”に迫る。




HIDADDY インタビュー 後半は近日公開!



文 : Seiji Horiguchi
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